町田にある「武相荘」には、こんな文章が展示されているそうだ。
「無駄のある家」と題されていて....
家を買ったのは、昭和15年で......ごく普通の農家である。
......
それから30年かけて、少しずつ直し、今もまだ直し続けている。
もともと住居はそうしたものなので、これでいい、と満足するときはない。
綿密な計画を立てて、設計してみた所で、
住んでみれば何かと不自由なことが出て来る。
さりとてあまり便利に、ぬけ目なく作りすぎても、
人間が建築に左右されることになり、
生まれつきだらしのない私は、
そういう窮屈な生活が嫌いなのである。
俗にいわれるように、田の字に作ってある農家は、その点都合がいい。
いくらでも自由がきくし、いじくり廻せる。
ひと口にいえば、自然の野山のように、無駄が多いのである。
......
原始的な農家は、私の気ままな暮らしを許してくれる。
三十年近くの間、よく堪えてくれたと有りがたく思っている。
(白州正子『縁あって』「思うこと」より)
なるほど「無駄が多い」「自由がきく」かぁ...と考えさせられる言葉が多いのだ。農家のように大型の家で、なおかつ原始的(あるいは質素)な住まいは、ごく普通ではなくなってしまった。
当家を建築する時は、小さくても大らかな家にしようと、あまり作りこまないようにした。そして、無駄を楽しみ、窮屈でない暮らしをしたいと思っていたのだ…が、昔の農家との大きな違いは広さなのだ。「自然の野山のように無駄が」多くはないのだった。その為に、小さなスペースでも不自由なく暮らせるように、つい「便利」に「抜け目なく」作りすぎてしまいそうになった。
自由にいじくり廻せることは、楽しくもあり、それなりに工夫や手間も必要である。「人間が建築に左右される」とは、物に奉仕するような暮らしだろうか?確かに、それは窮屈そうだ。ただ、いじくりまわすことが出来る自由もあるが、工夫しないと暮らしにくいとなると、それはそれで建築に左右された暮らしとも思えて…じつに難しいことなのだ。
究極の洗練は、少ないもので快適に暮らすことかもしれない。しかし、自由は快適とは限らないし…と思いは巡ってしまうのだ。
武相荘と白洲さん (芸術新潮 1999.12.より)